2022年12月25日埼玉県飯能市でビショップさん家族をハンマーで殺害した事件。斎藤淳容疑者は家族と離れて一人暮らしでした。父親を始めとする母親や姉との関係、若い頃や中学高校大学での様子、また映画監督としての経歴など生い立ちを追いました。
(2023.01.16追記)斎藤淳容疑者はビショップさんの妻殺害容疑で再逮捕されました。
斎藤淳家族①「父親は県外に在住」
(被害者一家と)何があったのかは私もわかりません。ですが昨年、淳が車を傷つける事件を起こしたというのは、被害者の方の弁護士から書面でいただいていたので知ってはいました。淳がそういう事件を起こし、逮捕されたということが書かれていました。私の知る限り示談はしていないと思います。 その文書の中には『今、住んでいるあの家からとにかく出ていってほしい』と書かれていました。(斎藤淳容疑者の父親)
斎藤淳の父親は生きていました。母親と離婚してから斎藤淳とは会うことはなく、話してもいないといいます。集英社オンラインのインタビューに答える父親の言葉を聞くと、息子を思う気持ちが伝わってくるごく普通の一般家庭にいる父親を想像させます。
「今こうして淳の話をしていても動悸がとまりませんし、目まいもしてきます。被害者の方達には申し訳ない……、申し訳ないという言葉では足りないと思っています。」父親は言葉をふりしぼっているようでした。
現在県外に住んでいる父親は斎藤淳の子供の頃を思い出していました。幼少期に公園や山で息子と遊んだこと、家族で旅行にでかけたこと、自分が映画好きもあり、家にあった名作のDVDやビデオを息子が自室で夢中で見ていたこと。映画監督を目指していたのは、少なからず自分の影響を受けていたのかなと。
離れてから22年のあいだに様変わりしてしまった息子。当時単身赴任で家を空けている時期もありましたが、斎藤淳が警察沙汰になったことはないといいます。この22年は息子に連絡してもつながることはありませんでした。姉から様子は聞いていたので全く無関係ではなかったとのことです。
「その時もとんでもないことになってしまったと思いましたが……まさか、さらにこんなとんでもないことを起こすとは……愕然としているというか、ショックというか、言葉が見つかりません」
父親はショックを隠しきれない様子で取り乱しているのが分かります。斎藤淳は器物損壊の容疑で逮捕されましたが、示談が成立しのちに不起訴になったと報道されていますが、父親は示談はしていないと思うと話していました。
斎藤淳家族②「母親と姉に暴力」
「私の娘が1学年下なのでよく覚えていますよ。このニュータウンは平成元年(1989年)に一斉に建ち始めたので、その頃に引っ越しされてきているはずです。昔はご両親と、2歳年上のお姉さんと住んでました。(60代の近所の女性)
斎藤淳と姉は2歳違いだということが分かりました。60代の近所の女性は姉のことを綺麗な方とはなしていて斎藤淳の父親は姉とは一年前まで連絡を取っていて家族の様子はきいていたということです。
「私が前妻と離婚したのは23年前です。離婚してからは淳には会っていません。離婚したのは淳が高校を卒業する年のことで、原因は何か子供たちに問題があるとかではなく、あくまで私と前妻との間の問題でした。
斎藤淳の中学は全寮制の私立中学でした。前妻が見つけてきたという父親の話から母親は教育熱心だったことが伺えます。いくつか候補の学校から本人が選んだということですが、両親の協力なしでは受かりませんし、経済的余裕もあったことがわかります。
両親が離婚したのは斎藤淳が18歳の時でした。父親は子供のことではなく、夫婦間の問題だと話しています。18歳の斎藤淳は両親の離婚をどう思ったのでしょうか。父親が家を出てから斎藤淳は母親と姉と暮らしていました。
斎藤淳は大阪芸術大学に進学し、一時家から離れましたがまた実家に戻っています。そして10年前の30歳の時に姉と母親に暴力を振るったことがありました。父親は原因はわからないといいますが、それを機に母親と姉は家を出ることになります。
近所の60代の女性は先に母親が家を出て、5年以上前に姉が転居していると話しています。
家を出るというのは、暴力は一度や二度ではなかったと考えられます。斎藤淳が家で一人になってからも、定期的に姉は連絡をとり様子を見に自宅を訪れていました。父親の話では1年ほど前から姉も斎藤淳と連絡が取れなくなったということです。1年ほど前というのはビショップさんの車に傷をつけ逮捕されたころでしょうか。
(2023.01.06追記)
母親が生活費を月5万円渡していたと聞いたことがありますが、さすがに月5万円では大変でしょうから、ガソリン代を節約していたのかもしれませんね。それに自分で食べるためなのか自宅の庭で人参を栽培していました。一昨年の夏くらいにはよく一人で座り込んで、庭先をいじっていましたよ」(別の近隣住民)
斎藤淳はどうやって生活しているのかと疑問でしたが、母親から5万円の仕送りがありました。斎藤淳に暴力を振るわれ出ていった母親ですが、見放すことはできなかったのでしょう。
斎藤淳家族➂「登記簿は語る」
ネットに斎藤淳の自宅登記簿が出回っていました。
共有者
飯能市美杉町4丁目13番地20
持分10分の6
斎藤〇〇○
持分10分の4
斎藤○○
丸の中は両親の名前が書いてあります。〇〇○が女性の名前、〇〇が男性の名前です。
斎藤淳の自宅は両親が共有名義で取得した際、持ち分が母親のほうが多かったことになります。一般的に言えば母親側の祖父母が援助した可能性があります。
近所の人が斎藤淳の家族が住んでいた当時を語っていました。
4人で住んでいた。4人じゃなくておばあちゃんもいて5人。(近所の人)
斎藤淳の家族は引っ越してきた当初は家族4人ではなく、5人ということがわかりました。おばあちゃんは母親側でしょうか。そうであるとするとおばあちゃんが少し資金をだして、母親の持ち分が多かったのかもしれません。
斎藤淳生い立ち①「小学校では元気で明るいサッカー少年」
「明るくて人気者で、サッカーは上手だし、頭は良いし。曲がったところのある子じゃないって。(中学は)難しい学校に行ったみたいだけどね」(息子が小学校の同級生)
斎藤淳は1981年に生まれました。現在の自宅に引っ越してきたのは小学1年生のとき。祖母と父と母、姉の5人家族でした。近所の人はサッカーが得意で長髪で学校ではモテる方だったと話していました。この頃は明るく友人と登下校する活発な男の子で今の印象との違いに驚いていました。
父親はごく普通の子どもだったと思い返していました。当時はトランスフォーマーのようなロボットものが好きだったということです。どこの家庭の男の子も流行りの戦闘ものは一つはもっていたのではないでしょうか。
小学校卒業後、斎藤淳は全寮制の私立中学校に行きました。小学校6年生で親と離れて暮らすの寂しかったのではないでしょうか。結局やめて地元の公立中学校に転校しました。中学3年の時です。周りはいじめが原因だと思っていましたが、父親の話だと「寮が嫌だった」ということでした。
斎藤淳生い立ち②「中学3年から無気力に」
中3の夏休み明けに(転校して)来たんですけど、そこから人が変わったなというふうに人と関わりたくない、無気力という感じですね。(小・中学校の同級生)
中3の夏休みから地元の中学へ通った。中途半端な転校、中学3年は受験も控えているでしょうから、そこから友達をつくるなど、難しかったことが想像できます。人と関わりたくないというように見えたかもしれません。
父親から離婚の話があったのは18歳の高校生の時でした。斎藤淳は父の話を黙って聞いていたといいますが、すくなからずショックを受けたことに間違えありません。18歳といえど成人前の子どもです。幼少期から一緒に遊んだ思い出を父親が話していましたが、斎藤淳にとって父親の存在は大きかったのではないでしょうか。
その後地元の私立高校を卒業し、大阪にある大学へ進学するため実家を出ることになりました。
斎藤淳生い立ち③「大学で映画監督を目指すも挫折」
「私も映画が好きで、家には古い名作のDVDやビデオが置いてありました。高校生くらいの時から、淳がそれらを自分の部屋に持っていって見るようになりました。映画監督になりたいという話を聞いたことはありませんが、映画は好きでしたね。サスペンスやアクションやホラーなどは好まず、ヒューマンドラマを好んで見ていました」(斎藤淳の父親)
現在は無職の斎藤淳、かつては映画監督を目指していた時がありました。大阪にある芸術大学を卒業後、2007年頃には映画監督として映画の制作に取り組んでいました。
父親の映画好きが影響したことはいうまでもありません。18歳で父親と離れてからも映画という共通点が少なからず支えになっていたかもしれません。Twitterで斎藤淳の知り合いらしき人がツイートしていました。
斎藤淳生い立ち④「孤立していった元天才映画監督」
斎藤監督観察ニッキというブログがありました。
『手紙』2005 16mm 16min
仙台短編映画祭2005「新しい才能プログラム」上映
TIROL Short Film Contest審査員特別賞
第3回シネアスト・オーガニゼーション ・大阪エキシビジョンオープンコンペ部門最優秀賞
「ギフト」オーディション告知**
2007年 11月 12日
斉藤監督作品「ギフト」のキャスト及びスタッフを募集させて頂きます!
■タイトル:「ギフト(仮)」
■完成尺:50〜60分(予定)
■使用機材:使用機材未定(AG-DVX100予定)
■撮影場所:東京近郊
■撮影日時:12月15日〜12月31日の予定
■オーディション日:11月23、24、25日
■オーディション会場:中野区社会福祉会館
断絶の間から何か見出したい、拾い上げたい、という思いがあった。
白と黒、生と死、キャリアとノンキャリアなどの間からである。
「建設的であろうとすること」が、この作品の最も重要なテーマである。群像劇という形態をとり、複数の登場人物達の日常を切り取り、紡いでいく。
家具屋で働く男AはHIV陽性の告知を受ける。家族には打ち明けられなかったが、
友人の瀬戸にはそれを打ち明けることが出来た。彼は病気のこと、好きな女性がいることを話した。
瀬戸はアクセサリー職人を目指して日々作品の制作に励んでいる。手は動かし続けるものの、
作品はなかなかあるべき姿には近づかない。彼は同棲している里紗と一緒に男Bのラジオを聞く。
男BはゲイでラジオのDJで、最近恋人よりも仕事を選んだ。だがディレクタ—の村上が連れてきたのはさつきという新番組のパーソナリティだ。ビルの壁面には大きな彼女が微笑んでいる。彼の放送は終了するのだ。
斎藤淳の生い立ち⑤「ビショップさんに非常に強い恨み」
2021年8月頃からビショップさんの自宅駐車場に止めた車がマイナスドライバーなどでたびたび傷つけられるトラブルが6件あったことがわかりました。車の右側フェンダーから、前・後ろドアを通過してトランクルームまで傷つけられたということです。
2021年12月警察は斎藤淳の犯行と見て捜査していました。自宅を捜索したところ、証拠が整わず逮捕にはいたらなかったということです。
そして2022年1月、警察が張り込んでいるところに斎藤淳容疑者が現れ車を傷つけ始めたので現行犯逮捕となりました。他の2件の器物損壊について再逮捕されましたが、3件とも不起訴処分になっています。
ビショップさんは当時、車に傷つけられるようなトラブルについては心当たりがないと話していました。
犯行動機について東洋大学桐生正幸教授の話がありました。
(車に)深い傷をもたらす器物損壊の犯人は持ち主に対して非常に強い恨みがあると推定できる。(器物損壊容疑で)逮捕されたということでますます強い恨みになっていった。被害者に対して恨みを晴らすという目的が主であって、自分が捕まるかどうか二の次の犯行であったと推定できる。
そして斎藤淳は12月25日、解体用ハンマーなど鈍器を持ってビショップさん宅に押し入りました。
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