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夏目漱石の妻、夏目鏡子は悪妻?実は良き妻、良き母であった。

2021年4月17日

夏目鏡子

夏目鏡子はかの有名な文豪、夏目漱石の妻です。

鏡子の存在は漱石にとって、なくてはならない存在ですが、なんと悪妻・猛妻説が多々見受けられます。本当にそうなのでしょうか?

いくつかの文献によると実は違います。

夏目鏡子は良き妻、良き母でした。

どうして悪妻説が出たのかを調べてみました。




悪妻と噂された原因と考えられる鏡子の行動と言動

子供の頃

父は政府の要職を努め、裕福な家庭で育ち、お嬢様として育てられました。小学校を出てからは家で家庭教師について勉強をしたそうです。大切に育てられましたが、何一つ家事ができないそしてわがままな面もありました。

朝寝坊

鏡子の性格はおおらかで何でも口にするタイプです。朝寝坊を漱石に指摘された時は

「1、2時間多く寝させておいてくれれば、その日は機嫌よく色々できるんだからいいじゃない。」と言ってたようです。この朝寝坊は何回もありました。

手紙を出さない

政府からイギリス留学を命じられ漱石はロンドンへ旅立ちます。

それから2年の間、鏡子は子どもたちと東京の実家で暮らしました。

離れて暮らすようになりましたが、その間のやりとりは手紙でした。

かなりまめに手紙をよこす漱石に対し、子育てで忙しいこともあって、なかなか返事を書けずにいましたが、ある時、長女筆子の視点で書いた「筆子日記」を少しずつ書き溜めたものを送るようになりました。漱石はこれを大変気に入ったようです。

字が汚い

鏡子のようになるなと言っているのでしょう長女に「筆子」と名付けました。

食事が美味しくない

後に長女が言うには、「細かい神経を持たない人なので、料理も熱かろうが冷たがろうか、美味しかろうが、まずかろうか、口に入ってしまえば同じという考えで、すき焼きが美味しいと漱石が言えば10日でも20日でもすき焼きを出し続ける人です。」

臨終間近のうたた寝

漱石が幾度か入院をしていた時、看病疲れで眠かった鏡子はお弟子さんたちがお見舞いに来たときに、眠ってしまったところ、それをみられて非難されました。

印税で豪邸

漱石の亡き後、借家だったところを買取、大豪邸を新築しました。また、色々散財しました。

占い好きだった鏡子は大金が入ったら使ってしまえという占い師の助言通り、行動したのです。

これも、お弟子さんたちに「先生は生涯借家で頑張ってきたのに亡くなった途端に遺族が豪邸暮らしか」と言われてしまいます。

漱石のことを赤裸々に語る

「漱石の思ひ出」という本を出版し、生前の漱石の事について語りました。2人の結婚から漱石の死に至るまでの回想録の中で、漱石の乱暴なふるまいも含め、赤裸々に語ったのです。世間に漱石の生前の様子を語ることに反対する人もいました。

漱石の妻として

夏目漱石との出会い

鏡子が花嫁修業をしていた19歳のときに夏目漱石と出会いました。

鏡子は口ひげを蓄えた穏やかで知的な容姿の漱石にこれまでの見合い相手よりも好ましく思いました。ひとめぼれですね。

漱石自身は幼い頃にあまり家庭的に恵まれなかったので、鏡子の家族のにぎやかで仲睦まじい姿に憧れをいだき、鏡子が歯並びが悪いのをしいて隠さずに笑っていたところが気に入ったエピソードもあります。

熊本で新婚生活

1896年(2021年の今から125年前です)夏目漱石と鏡子は結婚しました。

漱石の勤め先が熊本の高校での英語教師だったので、東京から熊本と当時は船で4日くらいかかり、遠いところへのお嫁入りになりました。

小さい頃からの夢で派手に結婚式をしたかった鏡子ですが、参列者もなく、ほぼ身内での式になりました。

ひとり東京から熊本へ嫁ぎ、期待と不安の中、夏目漱石には「俺は学者で、勉強しなければならない。だから、お前になんか、かまっていられない、それは承知しておいてもらいたい」と言われてしまいます。

鏡子はおおらかで多少のことには驚かない女性でそんな言葉にも「良うござんす、私の父も相当本を読む方ですから、学者の勉強くらいにはびくともしやしません」と答えます。

鏡子の自殺未遂

それからまもなく鏡子は妊娠しましたが、あえなく流産してしまいます。

鏡子が安心して暮らせるように漱石はいっそう、仕事に励みますが、それが鏡子を孤独に追い込んでしまいました。

1898年、鏡子は近くの革に身を投げ自殺未遂を起こします。幸いにも命は助かりました。

それから漱石は鏡子が二度と離れないようにお互いの体を紐で結んで眠ったそうです。

だんだんと鏡子は明るさを取り戻します。

そして漱石32歳、鏡子22歳のときに子供が誕生しました。

漱石がイギリス留学へ

文部省からイギリス留学を命じられ、2年間離れて暮らしました。

鏡子は東京の実家で子供と暮らしていました。

漱石はまめに手紙をよこしましたが、鏡子は子育てに忙しいという理由でなかなか返事がかけなかったのですが、筆子の日記という筆子目線で買いた、手紙をとても気に入っていたといいます。

そして1903年冬、帰国した漱石ですが、鏡子がびっくりするほど別人のようになっていました。

手当たりしだいに周りのものを投げつけたり、「なんのために書物を読むのか、人間にとって文学とは何か」そのこたえを見つけようと、もがくうちに自分自身を苦しめ追い詰められていきます。真夜中に明かりもつけずに泣いていたこともあったというんですから漱石の心はボロボロだったのでしょう。

あとからこれはうつ病の発作と診断されています。

でも、鏡子は病気だからと、夫の暴力に耐え、子どもたちを守り続けるのでした。

「吾輩は猫である」の名もなき猫

家に居座り始めた猫を最初は邪険にしていた鏡子ですが、漱石が自分になつく猫をとても可愛がり、機嫌が良くなっていったことで、猫があまり好きでない鏡子も「福猫」と思い可愛がりました。それから小説家として仕事をしていくいきっかけとなった「吾輩は猫である」が爆発的な大ヒットとなるのです。

今は高く評価される

長女筆子が言うには、鏡子はあの母だからこそあの父とどうやらやっていけたのだ、むしろ褒めてあげたい節が数多くある。父の神経衰弱のため、実際にいろいろな身の毛がよだつような危機があったが、鏡子の人柄や気風の良さが漱石を支えたのだと。

1927年に鏡子は「漱石との思ひ出」を出版。

この著書では漱石の姿を世間に赤裸々に語ることで漱石の文豪としてのイメージが崩れると批判されてきた。

今では漱石を知る上で1級の資料と高く評価されている。

 

(参考文献)「漱石の思ひで」「漱石全集」「猫と漱石と悪妻」

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